昭和42年9月1日 月例祭



 今日は昼からずっと今日一日がかりで福島さんがその書類を作成しておられるのでございます。
 ですから、そのことを夕べこうして通知があったと云うことを私が総代さん方にこう云う通知があったですもんねと云うことを申しました。それを聞かれて堤さんが改めて又お取次をお願いされるのでございます。只今お伺い致しますと、もういよいよ近い将来にこちらが合楽教会と云うことになり、しかもその教会長として親先生が教会長になって頂くと云うことになります。就きましては、どうぞ総代を初め信奉者一同の上に特別の信心のおかげ、お繰合わせを頂きまして、何処の教会から何処の信奉者が見ても誰がみても、成程合楽の信者、合楽の信奉者は成程手本にもなる、見本にもなると云う様なおかげを合楽全体の上にお繰合わせを頂きます様に、どうぞ模範になります様な教会設立が出来られます様に、同時に信奉者の一人一人が嬉しゅう、しかも楽しゅうここのお広前で信心の稽古が出来られますようにと言う、もう実に行き届いたそんな感じ、堤さん、もう一生懸命でお届けをしておられるものですからね。もう途中で胸が詰まられるんです。どうぞ、ね、お広前全信奉者の上に人の手本にもなる様なね、一つの手本になる信心と同時にお広前全体が手本になる様なお広前としての新発足が出来ます様に、神愛会から金光教合楽布教所、布教所から教会設立と云うことに段々なって参ります。
 信心の私共の過程と云うか歩みと云うものが今の侭ではいけんのでございます。ですから、そこんところをどうぞ、万事にお繰合わせを頂きます様に、ですね、皆さんこれですね、本気でお広前のことを願うてごらんなさい。皆さんでも必ず感激されます。真に有難いものが湧いて来ますよ。
 その真に有難いと云う心がおかげの初めなんですね。これは堤さんの話ございますですけれども、もうそうですね、やんがて二十日位もなりますでしょうか、沢水正男さんと云う方のまあ云うなら赤の他人の同じ村の方なんです。その方が近所のご普請の加勢か何かに行かれましてね、それが上から真逆さまに転落された。そしてそのまま意識が戻らんまま今日に至っております。それをこれをあのお父さんだけではありません。息子さんの清さんもそのことを願われます。それからお母さんが参って來るとお母さんもそのことを一生懸命願います。だから特別のお付き合いか何かでございましょう。本当にそれでそのお届をなさって、沢水正吉のまあだ若いみ空でございます。もういっぺん生をこの世に戻らせたまえというわけです。そしてもう一遍おかげを頂いてこういう有難い信心がある、こういう有難い道があると云うことをです、本人にも分からせて頂きます様にと云う願い。もうこれでもですね、自分の堤商店のお繰合わせを願われる時にはそうでも何でもないのです。けれどもね、あの沢水正吉と云うお届をされるとですね、胸がここにこみ上げてくるらしいです。どうぞもういっぺんよみがえりのおかげを頂かせて下さいと云うて、もう二十日近くでしょうか、もう二十日にもなりますでしょうか、毎日そのお届けがあります。如何にそのことがですね、私は神様のお喜びであるかと云うことを感じます。堤しめ吉さんが感激しているのじゃない。堤しめ吉さんが涙を流しておるのじゃない、ね。赤の他人の誰彼のことでも一生懸命にそれをお取次頂いて、祈ってもういっぺん、この世におかげを頂かせて貰って、この有難い道の信心を分からせてやりたいと云う願いがそういう拝みになってくる、ね。
 いわゆる神様が感動しござる。神様が胸が詰まりござる。神様が涙を流してござると云う感じですね。日々お取次させて頂いてそれを思うのです。ね、お広前全体の上に於きましても今日聞かせて頂きますと、いよいよ教会設立の願いがここにも成就すると云う前提であります。もう向こうの方から教会設立に願いを私の名前で早く出せと云う通知がありましたと云うことを聞かれたらね、どうぞ教会に成りました暁には今のような信心では駄目でございます。ここに一段とお互いの信心が一段と進んで、しかもこのお広前でね、どうぞ嬉しゅう、楽しゅう、そして安心してと云うことでした。ね、皆が安心して信心の稽古が出来ます様にと云う願いをなさいました。皆さんもですね、本当に自分の心の中の神心がです、赤の他人の誰彼のことでも切実に祈らなければおられない。二日じゃない、三日じゃない。治られるまでおかげを頂かせて貰うと云う、そういう願いがですね、神様を私は感動させるのだと思う、ね。
 ですから、どうでもそこに必要なのは神心なのです。
三代金光様が、今上に飛行機が通っておりますが、私は何時もあの飛行機の爆音を聞きますと、どうぞあの飛行機が敵の飛行機か味方の飛行機か分かりませんけれども、どうぞ目的地から目的地に参ります間、万事おかげを頂きまして無事帰着のおかげを頂きます様にと云うことを願います。子供が鳴いておりますなあ、あの泣き声を聞きますと何かむずかっておる、何かどこか痛いか痒いかあるのに違いない、どうぞ神様おかげを頂かせてやって下されと云うて願いますのじゃと仰った。ね、そういう祈りが出来れることをね、それも私共がです、本当に目の前にその難儀を見てです、この人がおかげを頂なさればと思うたらお取次を頂いてお願いもしなければおられないのである。そういうねがいを神様が喜んで下さるのではないでしょうか。その喜びがなら、堤しめ吉さんをしてそのことになりますと胸が一杯になっていっぺんにはお届けが出来ないと云う様に感激をされます、ね。今日のお届けもそうでした。そりゃ総代と云う立場からではありましょうけれどもね。どうぞここで皆さんの信心の稽古が出来てお広前全体がです、よその模範になる教会にお育て頂く様に、しかも信奉者の一人一人がこのお広前に安心して嬉しゅう、楽しゅうここで信心の稽古が出来ます様にと云う、そういう願い。そこで私は思うのでございます、ね。お互いがです、本当に嬉しゅう楽しゅうしかも、安心して信心の稽古が出来れる様なおかげを頂かなきゃならんと思います。これは、あんまり惚けてから合楽合楽と参りよると、これは家も財産も上げてしまわならんのとではなかろうかと思うたら、もう安心ではありません。もう不安です。もう先生の側にあんまり寄るごとなかごとなる。ね、そりばってん、お願いがあるけん、こうやってお参りはして來るばってん、あんまり深入りしよると、これはもう家も財産もあげてしまわならん様なことになっちゃ大変だと、もし言う者がもしある、そう言うのを私は不安な信心だと。安心してからの信心じゃない、ね。そこで私達が嬉しゅう、楽しゅう安心して信心の稽古が出来ます様にと云う願いを皆さんの一人一人が持たなければ成りません。
 お願いがあるから参りよりますと云う信心から、ね。
 楽しゅう信心の稽古が出来ることが有難いと分からせて貰える様な信心にならなければいけません。そこでいわゆる今度はその安心して信心が出来るというおかげを頂かねば。為にはどういう信心をさせて頂いたならよいのか、皆さんどう思われますか。
 今朝方から何か堤さんのことばかりお話しますけれども、堤清さんがお届けされました。それはこういう様なことですから,まあ理解づけて申しますとこうなんです。自分の所の車が別府に向かっていて、丁度別府と椛目の中頃だと云う所で、自分の自動車が故障をした。そこで困ったことじゃあるが、さあ辺り近所に修理工場もなし。これは笠さんにお願いをして笠さんに、ここまで来て貰うより他にないと思うて笠さんに電話を掛けたと言うのでございますね。そこで私はあんたんところの車ち云うのは、やはり堤の家の徳のことであろうと、こう私が申しました、ね。車は乗り物は全てお徳と言います。この世はお徳の舟に乗る。お徳の車に乗って渡る から楽なんだ。ね、別府と云うことは別の府とね。太宰の府とこう申します。太宰府は昔は太宰の府と申します。それはどういうことかと云うと、椛目から合楽へ移ったと云うことだと思います、ね。いわゆる合楽の府なんです。合楽のお広前と云うことなんですね。そ しかも例えば、今朝からの御理解を頂いておりますとです、ね。いわゆる合楽布教所から合楽教会にならせて頂くその過程だとこう思いますね。笠さんと云うのは恐らく私のことじゃろうと思いました。 修繕のあちらは名人ですけど、私は名人ではないですけど、まあそういう風に云うて下さる。笠と云うのは竹遍に立つと云う字が書いてある。立ち上がるの立つである。竹遍はこれは素直と仰る。素直に立つと云うことなんです。だから、違わんごと清さん、私のことじゃろうね。その自動車の修繕は私より他には出来ないと私は思う。結局親先生に来て貰う他ない。親先生にこれは修繕して貰う他にはないと云うこと。合楽布教所から合楽教会に向かわせて頂くその途中であんたん所の車が今故障しているのです。ね、お互いが五年信心すれば五つの徳、十年信心すれば十年のいわば徳を皆さん受けておられるに違いがない。けれどもそのお徳の車もです、ね。修繕を要する様になったんでは、もうにっちもさっちも行きません。ね、そこで私共は自分自身の信心と云うものを時々振り返らせて頂いて、ぎっちりばっちり言いよる様なことはなかろうか。留まって行きよる、もう前進する様なことはなかろう。そこに前進を拒むもの、または修繕を要する様に崩れておる自分自身の信心の徳と云うか信心というか、自分の心と云うか、それを私は確かめなければならないと、ね。
 これもこれは昨夜の御祈念のことでございました。総代の久富繁雄さんが今朝方からお夢を頂かれたと云うお届けでございました。丁度小学校の時の様な風で、その夏休みの私がそのおさらい帳と夏休みのお復習帳を頂いておる。そしてどうですか、お復習帳は全部出来ましたかとこう尋ねられる。そうしたところが、もうそのやっぱり一杯それに対する勉強が出来ておる。書いてはおる、ね。だから大体に於て出来ております。そんならその勉強があなたのものになりましたか。あなたの血肉になりましたかと、云う意味のことを問われてから、果して一月の勉強が血になったであろうか、肉になったであろうかと云うことになって來る時に、久富繁雄さんもそこは疑問である。勉強はしておる。毎日云うならば、毎日お参りはさせて頂いている。御用もいつもの様にさせて頂いておる。お復習帳は、いわば書いてはしまってはおるけれども、1月の成果と云うのはどれほど上がっておるかと問われた時にです、どれ程血肉になったか自分で分からない。
 丁度、夏休みが終りましたから、そういう様な表現で下さったのでございましょうね。学校の。
 私共も一月、云うなら信心の稽古をさせて頂いて今日からは九月一日、いよいよ改めた信心に入って行かなければなりません。夏休みの間、私共はどういう信心をさせて頂いたか、お復習帳を親からばっかり書いて貰った。自分ではいっちょん勉強しとらん。勿論自分の血肉になる筈も無いと云った様な私は向きもあるのではないかと思う、ね。
これもこれは今晩参って来ておられますね。森部の高山さんのお夢のお知らせ。
 山の頂上に登っておる。そして自分の心の中に思うこと、ほほうこれから峰づたいに向こうへ行きゃあそれこそ、もう素晴らしい景色だろうかと思われる様な状態である。お芝居で云うなら絶景かな、絶景かなと言う様なその様子が感じられる。まだ見はせんけれども、これから行ったらどういう素晴らしい景色が展開してくるだろうかと、いうところであった。ところが、誰かがですね、下の方へ下ろうとこう言う。だから自分もつい、やはり下らせて頂いた。ところが、只素晴らしかったところがやっぱり素晴らしかっても、そこに見えて來る景色と云うものはやっぱり素晴らしい景色が展開してきたとこう言う。私はそれを頂いて、聞きましてからですね、ほうそういう表現でそういう信心を説明を受けるとほんとに良く分かるなあと思いました。ね、お互いの信心がです、ね、折角頂上を極めたのにも拘らずこれから峰づたいに行けばどういう素晴らしいおかげになるだろうかと云う様なものを、もう目の当たりに見える様なのに、人から云われてから別なげきしてから、下の方へ行っているわけです。さあ、下る間は景色は見えるでしょう。けれども麓に近づいて來れば來る程に、もう全然視野は全然きかなくなってくる。いや降りてしまえばもうおしまいなのです。成程信心を例えば止めてです、それでもやっぱり、お気付けも頂かんなり儲け出しござるとか、まだあの信心もなかったっちゃ、やっぱおかげ頂きござるですよ。と云う様なのは、こういう様なことであろうと私は思いました。今までおかげを受けてきたお道なのですから、帰りがけにもやっぱりそのおかげを頂いて道は見えて行くのであります。そしていよいよ自分の信心が低下したときいよいよ自分の信心が地に落ちた時に初めて分かるのでございます。
 お互いの信心が何年も信心を続けておるが、果して登る一方で行きよるか、ね。ちょっとすりゃもう下へも下る。はあ、こげなこつではいかんと又上へ登る。いわゆる行ったり来たりして同じ様な景色ばかりを眺めておる様なことはなかろうか。まあそれでも、おかげはおかげ、いわゆるあか抜けしてこない。おかげが、新たなものになってこない。五のものが十になって行かない。ね、それはです、私はそのいわば折角登ったそこからです、何かに引っかかる。そして信心が登ったり下ったりしておると云った様な状態の人がどの位多いか分からないと、云うことを感じます。ね、
 そしたら、先生本当にお夢に頂いたとおりのようなことがございましたとこう言う。ここで下に降りちゃならぬと思うて、私は上に登ることにさせて頂きますと言う様なお届けがございました。
 皆さん只今の御理解なんか確かにそうなんですよ。ね、信心と云うのはもう上に登る他ない。もう前進するより他にないね。
 一にも押し二にも押し、三にも押しだね。もうこれはまあだ私の信心が足らぬからなのである、と云う所から信心が、上に進めて行くところから、不平もなくなりゃ、不足もなくなるね。不思議な自分の心に安心がいかん時にはです、あなたの心が汚れておる証拠なんです。貴方の信心が低下しておる証拠なんです。不平不足が出る時には、もう貴方の信心が低下しておる証拠なのです。と悟らせて頂いて、ね、これではならぬと云う信心がなされて行かねばならぬ。 折角、日々信心の稽古はさせて頂いてお復習帳を書きはおる。けれどもそれが自分の血肉になっていないとするならばですね、いよいよ神様から、さあおかげを下さろうとする前には必ずお試しがある。試験があるね。夏休みにはどの位勉強が出来たじゃろうかと言って、九月に入ったらすぐに、例えば試験がある様なものです。どれだけ実力が養われたかと云うことをです、試される時に、ね、一人落ちなければならない。もうこれは、お試しは絶対なのですよ。
 信心が進んで参りましたらならね、只今申します様に堤さんの信心を今日申しましたがですね、ね、本当に自分ながら自分で心を拝みたい様な時であろうと、人のことを赤の他人のことが一生懸命に感激一杯でお届けでも出来る時、総代の責任からと云やあそれまでですけれども、お広前全体のことを一心にお取次ぎを頂いて願えれる時、私は助かっておる堤さんの姿を思います。 
 ところが、そういう願いを持たせて頂きながらです、もう家に帰るとそういうものが段々薄らいてくる時に、いやになったり不安な心が起こって來る、ね。その不安な心が危ないのです。ね、自分が一生懸命にいわば登り一途にある時にはです、もう不安がない。
 どういう難儀な問題を持っておりましても、おかげになると確信が出来る。ところが、自分の信心が登ったり下ったりしている時にはです、本当にどうなるじゃろうかと云うことになって來るのです。そういう信心がです、例えば、さあ勉強せにゃ、勉強せにゃあと云われて勉強するのじゃなく、自分から進んで、いわばその試験問題に取り組ませて貰うと云うかね、私は最近特に強く言うておりますが、一つの問題をね、問題にして行くから問題の波紋と云うのが、いよいよ広まって行くばかりなのです。
 先日もそんなお届けがありましたから、私は申しました。もうそれはあんたんところで止めておきなさい。あんたが誰彼に云うたりしよると、そこからまた波紋が広がる。あんたがあんたのところで止めて、あんたの信心で処理して行きなさい。そげな馬鹿んごたる話をね、人にしなさんな。ね、それこそ問題をいかにも信心している様であるけれども、その問題を問題にして波紋に波紋を広げて行く様なことではおかげにならぬのだ、ね。だから、問題を問題にしてはならぬ。問題が起こったらお取次を頂いてその問題を自分の信心として、自分の信心でここんところを解決していけれる。そこにその信心はもう自分のもの。それは人の問題であってもそうなんだね。自分の所の何時もその問題をです、ぞっこりとそれを自分が頂いてお取次を頂いて、それを如何にしていくことが信心であるかと云うことを、それをこなして行くときにその信心はもうあなたの血や肉になって行くのでございます、ね。だから問題が多いのが良いのであります。けれども、それを問題を問題にすることはいけません。問題を各々の信心で各々の場でそれを解決していけれる。消化していけれる。はあやっぱ、これもおかげじゃったなあと云う答の出るところまで私は追求して行かねばならない。ね、
 信心が自分のものになっていく。血になり肉になってくる時です、ね、そこから楽しゅうなっていくのであり、喜びが湧いて來るのである。そこから日々安心のおかげも頂けて來る様になるのでございますね。 ところがです、お話はそれまでなんですが、今日も先程でした。大川から参って来た方があります。家内が、娘が、子供達がここへお参りをして來る。それでこの頃初めて前を通るからお参りをさせて頂いて、私は先生の前ですけれども、拝むことが嫌い。信心することが嫌いでございますと、こう云われる。ね、けれどもその合楽合楽と云うからどげなところじゃろうかと思いよったら、今日幸いここの前を通るから寄せて頂いたとそこから上がって来ました。私もそこから、そこで腰掛けてから二人で色々話をさせて頂きました。そん時に何がその人の心に響いたかは知らないけれども、これは信心するなら合楽が良いと思う。私は家内に申しよりました。
 金光様は、お前は大川から來るまで何軒あるか。同じ金光様でわざわざお前は合楽まで参ることがいるか。と云って参る度に申しよりましたけれども、先日私は天理教の所へ参りました。その方が、ところがそのお宅は天理様を拝みよんなさるばいなあと、申しましたら、はあ、私の方の親教会は門司に、門司です。門司に毎月お参りをする。他に、はあ天理教の教会はここんにきに一杯ありましょうもんと言うたら、それがもうちゃんと手続きがある。いわば私の手続きの教会はやはり門司ですから、やっぱり門司に参らにゃいかんと言われて、ははあ家の家内達もそげなことを言いよるとじゃろうかとこう思う。ね、ところが今日はゆっくり参りましたから、丁度、控えでございましたから、夕方から私の時間が許す限り、まあ二人で色々と話をさせていただいたんですけれどもね。
 これは手続きとか親教会だから合楽に参りよるとじゃない。これはもう合楽に参らなければ頂けないものがあるから、家内や子供達が合楽合楽と言うて來るのばいなあと、言うことが分かりましたと云うのである。ね、けれども、皆さんでもやはり、そういう時代があったでしょう。他所から他所の教会から来た人なんかそうじゃなかったじゃないでしょうか。求めて求めて、求めて止まぬものがあるのだけれども、与えられない。その与えられない淋しさが、いわゆる求め続けておるものが、ここに縁を頂いたね。ここの信心になりきったと云う人達がいくらもございますでしょう。ですから、ここでは、その手続きとか親教会とか云うものではなくて、ここでなからなければ頂けないものがあると云うこと。ね、それを皆さんが目指して見えるところに、大体はここの信心の魅力があるのでございますけれども、段々そういう魅力を持っておったんだけれど、この頃そういういわば、親先生その人に魅力を感じなくなってきた。と、例えば致しましょう。どうもこの先生が云うことが分からなくなってきた。どうも先生もいい加減な人だと言うことにその気が付いて来た。ね、けれども、もういっぺん、んなら大坪総一郎の信心を良く見せて頂いて、そんならばそいういう、んなら詰まらん大坪のところでどうしてあれだけの人が皆集まって來るのか。どうしてああ云うおかげが立つのか。そこにまた目を転ずると、まあいっぺん研究し直さなければいけなくなって來る。そこで改めてなら、大坪総一郎金光様じゃあない、大坪総一郎その人の信心を段々本気で分かる気にならせて頂いたら、裏も有れば表もあるのだけれども、裏に入れば入る程今まで気付かなかったところに入って行けば行く程、人間だからそれはどげなことでもあろうけれども、そういう中にもです、何とはなしに、いわば「あばたもえくぼ」と云う様なものがです、皆さんに感じられるようになって來る。そしてです、ね、あの名医、あの名人と言われるお医者さんの手を握って貰うて死ぬるなら、もう何も思い残すことはないと云う様にですね、ふうたらぬるい先生じゃあるけれども、もうこの人先生が言う通りにしてです、云うならば、あれがよし地獄道につながっておっても、さらさら厭わない様なところまで、私と皆さんとの信心が交流し始めた時に、これはどういう事を見ろうが聞こうが私は今日堤さんが云われるところの安心のおかげと云うのは、そこから本当の安心と云うのは頂けて來るのではなかろうかと。そうでしょう、ね。惚れて惚れられると云うこと。ね、そしてそれがです、地獄道に例えば、つながっておっても、んなら先生が云う通りにしておかげを落としてもです、さらさら厭わぬと云うところまで、お互いの心と心が交流して行く様なおかげを頂いた時に、これは完璧な安心のおかげが頂かれるのでございます。ね、
 「落ちるこの身は十八願の内と思えば危なげはない」と云う様な心が開けて來る。そこに絶対合楽と云うのが生まれて來る。
 絶対親先生と云うものが生まれて來るのです。なることなら、なろうことならそういう信心を極め合うて行きたい。と云うて私が生神様じゃないから、欠点は沢山あるのでありますから、その欠点そのものをいっぺん研究してみて良いところも悪いところも、やっぱり私はここの修行生の方達に申します。良いところも悪い所もあるばってん、良か所だけ取ろうてんなんてんち、云うたっちゃここの信心は頂かれん。
 もう良か所も悪か所もいっぺんは頂いてしまわなければいけんと私が申します。そういう信心を皆さんが頂き出される様に、意欲されて來るようになる。そこから生まれてくるのがです、嬉しゅう、楽しゅうしかも、安心してこのお広前で信心の稽古が出来ると云うのであると思うのでございます、ね。どうぞ皆さん、私と皆さんがそこまで一つ信心をお互いにですね、追求し合いお互いにそこんところを頂き合うていかねばなりません。
 私が如何にこの人のことを思うても、私が片思いになったんじゃいかん。皆さんが如何に私のことを思うて下さっても、私が知らん顔をしておるなら、そういうとこに成就しない。そういうところをです、親先生が自分の方を向いて下さらんならばです、これは自分の実意が足りぬのだ。真心が足りぬのだと、どうぞ向きを変えて下され、向きを変えて下されと云う信心がなされなければいけんのです。あの人には、にこにこしてから俺が行くとぷっとしてからと云う時があったら、ああ親先生向きを変えて下されと云うてですね、真の限りをもう一っぺん尽くしてみるのですね。教祖の神様、天地の親神様が、いや金神様に向かってなさった様に、どうぞ向きを変えて下され。人の命を取ったり、人の目を取ったり出来る程の新かな神様なんだから、人の生命も助けて下さることが出来るに違いはない。親先生もそうなんだ。あれ程の人が助かっていると云う程しの事実がある。あれだけのことが出来ていると云う事実がある。
 私だけおかげを下さらんと云うことはない。私だけにぷっとしてござるという筈はない。これはまだ私の実意が欠けているのだ。私の真心が欠けておるのだと、どうぞ親先生、向きを変えて下されと、云うて進ませて頂くところからです、それこそ、自愛が溢れるではなかろうけれども、お互いの心が交流する。はあ親先生の思いはここにあったんだなあと云うことが分かってくる時に初めて交流し出すんじゃなかろうか。そういう信心をです、私は今日堤さんは願われておるんだと私は思いました。ね、今迄は良かった。あれは布教所の信者さん、どこどこ布教所、まあだあの人は神愛会の会員さん・・ね。けれども、これからは合楽教会の信奉者、合楽教会の信者さん、合楽教会の総代さんと云うことになる。ね、ですから、今迄の様な信心ではいけないから、ここにもう一ぺん改めてです、親先生の頂き直しをです、させて頂いて、そして、よし親先生の行かれるところはですね、それこそ、オーロラ輝く北極の果てでもです、付いて行かねば止まぬと云う様な信心になてくる時にです、その親先生は貴方の方を向きなさらん筈がないのですね。良か時だけの親先生、それではやはり親先生がぷっとしてござるとも当り前ね。そこんにきをですね、一つ頂き極めて行かねばなりません。
 今日、私は堤さんのお届けをお取次させて頂いて、はあ素晴らしいことだなあ、そうなんです。本当に他所の手本になる様なお広前教会にならなければならない。為にはその内容であるところの皆さんの信心が、そこまで進んで行かねばならない。為には嬉しゅう、楽しゅうここで信心の稽古が出来なければならない。ね、
 それには問題が、これだけの沢山のことがある。ね、だから問題をないと云うことの方が不思議なのです。あるんだけど、問題をです、問題にせずにです、問題を信心で頂いていくところにおかげを頂かせて貰うてね、いよいよ嬉しゅう、楽しい場に、ここがしかも安心のおかげが頂ける場に皆さんがしておいでられなければならないというふうに思うのでございます。
どうぞ、皆さんのぎっちりばっちり云いよる様な堤さんの清さんのそれじゃないですけれども、修繕を要する様なことはないでしょうか。ね、そんならその修繕を一番上手にして下さるのは笠さんであると云う風に神様が教えておられます様に素直に立って行こうとするその人なのだ。ね、そしてそれが動き出す。いわゆる徳の車に乗せて貰うての日々信心の稽古でなからなければならないのでございます。
 先日からここの教会設立問題についての色々の会合で親先生から、今度の御本部参拝の時の十月の御本部参拝のことのご相談がございました。その時に今度はもう、合楽教会の布教所として親教会と一緒に参るのは今度はもう最後だろうから、今度はいっちょバスで参ろうかと云う話があった。そこで、そんならバスでお参り致しましょうと云うて決めておりましたところが、昨日バスの向こうの駐車場の関係がありましてですね、第四日目の、いわゆる十三日の御大祭にしかお参りが出来なくなりました。そこでその十三日と言やあ、ここが御大祭を控えておりますから、そこで親先生がすぐにその教務所に電話をかけられた。もう汽車の方は断わっておったんですけれども、締め切ってあるのですけれども、どうでしょうか。こんな風で・・十三日では家が困りますから、久留米地区は大体十日四日になっておる。だからその第一日の四日の日にその一緒にお参りできんでしょうかと言うたら、んならあの今申し込んで頂きゃ、今月は十日だったでしょうか、十五日、今月の十五日までにですね、まあだ揃うまいから、あの大体締め切ってあるそうです。けどもあの、十五日までに人員確定してあれば申し込ませて、あの受け付けましょうと言うことであったそうですから、そのことも今日親先生言うておられました。バスでお参りすることが出来ませんから、やはり汽車で団体参拝を致します。恐らくは、もうその時には教会ではなかろうかと思います。その時にお互いが教会、合楽教会の信奉者としてです、その事のお礼参拝になる様な運びになるのじゃないかと私は思います。どうぞ、旅費は大体四千円見当でございます。 ですからどうぞ、より良いお話合を下さいましてから十五日なら十日迄にこの次の月例祭までに申し込みをして頂きたいと思うのでございます。もうこの頃久しゅう御本部がお互い御無礼になっておりますから、これから又、元の勢いに戻させて貰い、いや元の勢いどころではない。本当に私が願っておる千人参りが出来るようなおかげを頂きたいと私も願うとります。皆さんもどうぞその事を願うて頂きたいと思うのでございます。   どうぞ。